彼の声はまるで穏やかな波のようだと私は思っていた。いつも、この慣れ親しんだ場所から見える本物のような海を見ながら伸びをして主、隣どうぞ!と元気よく声をかけてくれる彼は穏やかで、優しい優しい波。
「…海?」
「そう、海」
そんな優しい波は今、私の脚に緩やかにその身を投げて形を変える。けれどもし、私がこの選択を間違ってしまったとしたら、この解答は彼にとっての理想ではなかったとしたら。私はたちまち、この優しい優しい波にさえも攫われてしまうのだろう。彼は、いや、彼らは。そういう強さを確かに持ちながらも、私を飲み込まずに主、と呼んでくれる。
「海、うみ、海かあ」
「海、好き?」
「嫌いじゃないよ。けれど、好きなのかはわからないかも」
「…なんで?」
「呑み込まれてしまいそうで、怖いんだよね」
それは心からの声だった。海とは人間が産まれた場所、なんて言われもあるくらい、とてもじゃないけど私如きじゃ好きとか嫌いの域ではないぐらい広大で未知。正直、本丸に来る前にも特別縁があった訳でもないし、わからないからこその怖さというのもきっとあるのだろう。そんな事を思える辺り、まだまだ私は彼らと比べたら人間らしさの塊なんだな、と息を吐いた。
「主さん、ちょっとそれわかるかも」
彼の大きな瞳は目の前の青から私を捉えた。青のようで、緑のようで、捉え所の無いその透き通るような綺麗な瞳はまるで私の中の様々な黒いものを見通してしまいそうだ。なんて、綺麗なんだろう。彼はその瞳を三日月の形に細くして、はは、と笑う。
「海はでっかくて大きくて、両手伸ばしたって届かなくて。俺にだって抱えきれない程に怖いものだよ」
「浦島くんも怖いの、ちょっと意外」
「わかる!…けどさ、何か大丈夫な気もする。それはきっと、兄ちゃんや主さんと一緒にいるからだと思うんだ、俺」
「虎徹の横に私は並んじゃっていいものなのかなあ」
「いいよ!だって主さんは、俺らの主さんだから」
主、ってなんだろうなと何回でも思った。私は皆の上に立てるようなものじゃない、と思ったことは指では数え切れない程。それでも私は彼の、彼らの主であり続けた。それはやっぱり、皆が私を信じて主、と呼んでそばに居てくれたからに他ならない。そんな彼らはまるで海のようだった。優しくて広くて暖かくて、たまに冷たくて、怖い。そんな彼らが好きで仕方なくて怖いんだ。私の手を優しく握る浦島くんの手は暖かい。けれど、ごつごつしてて骨ばってて、刀を握っている手だった。覚悟をわかっている手だった。…優しくて強い、私の神様。
「…ありがとう、浦島くん」
「俺こそありがとう、主さん」
「中に入ってお茶でも飲もう?すっかり寒くなっちゃったね」
「うん、そうしよ!兄ちゃんや日向も呼んでいい?」
「勿論」
「やったー!」
主さんは海が怖いと言っていた。
その時に俺は海、と一言で言っても色々あると長曽祢兄ちゃんの言葉を思い浮かべた。あの時は確か、俺よりも遅く顕現した長曽祢兄ちゃんを本丸の海に案内した時だったような。俺がはしゃぎながら本丸は好きなように景趣を変えれるんだ、と話した時にううむと顎髭を摩るその姿にどうしたの?と聞くと、その言葉を話したような気がする。それは確か、兄ちゃんが数回、幕末の江戸に新撰組の皆と出陣した後だったような気もする。
「でかくて広くて、それでいて寛大で。おれらが抱えていた鬱憤やらも全て受け止めてくれるのがあの海だ。海を見てると小さいことなんてどうでも良くなるだろ?だけどな、それじゃ駄目だと教えてくれるのも、海なんだよ。わかるか、浦島」
「ん〜…、わかんねえ!」
その時の俺はまだ知らなかった。海の深さ、海の恐ろしさを。あの下には、竜宮城がある筈だと、あまり出来の良くない頭ながら何となく信じていた気がする。いや、きっとそうだったんだと思う。なんちゃって、なんて適当に誤魔化しておきながら、刀の身で海に入るなんて到底無理な話だったから、何となくそういう理想をずっと抱えて信じ込んでいたんだと思う。海は怖い。俺らにとっても、人間にとっても。それは静かな海が、教えてくれる。
「…まあ、言いたい事はわかる。だが言い方が悪いぞ、贋作」
「蜂須賀兄ちゃん!」
「…嗚呼、悪い」
「わかったならいい」
蜂須賀兄ちゃんはそう言うとすぐに踵を返して何処かへ行ってしまった。何処行くの?と聞く隙もなくスタスタと歩いていくその姿は普段の蜂須賀兄ちゃんとは何となく違うくて、俺は話しかけるのを躊躇われる。長曽祢兄ちゃんも「おれも、戻るかな」なんて言って歩き始めるものだから、慌てて待ってよ兄ちゃん、と俺が先に顕現したのに後ろをついて行ったのは懐かしい話。今はもう、兄弟皆強くなって前を向いている。一振一振、歩くべき道を見定めて歩いている。それが同じ道だとしても、俺らはもう兄弟でもあり、一振だ。
主さんが海を怖いと言うのなら、俺が絶対に守ってやる。たとえ本体が錆びちゃっても、俺がいなくなるんだとしても、きっと今の俺なら怖がらずにこの身を投げ出すことが出来る、気がする。だから怖がらなくていいよ、主さん。え?俺が折れちゃったら意味が無い?…やっぱり主さんは優しいな。じゃあできるだけ、俺も折れないよう頑張るから。だから主さんは、今は俺の為に笑っていて。そして折れた時は、泣いてよ。沢山泣いて、その涙で海が作れるほど泣いてくれよ。そしたら、俺はきっと、その海で綺麗に死ねると思うんだ。
「変なことを考えてるな?浦島」
「…鶴丸?」
足音も立てずに俺の背後に現れた鶴丸は、小さめのお盆にお団子とお茶を2人分乗せて、俺の横へよっと、と声を上げながら座る。
ほら、と美味しそうなお団子を1つ差し出してくる鶴丸は、俺がそれを受け取ったのを見るともう片方の手に持った自分の分のお団子を口に含んで、美味しそうに声を出して。何も変わりはなさそうなのに、何かを感じられずにはいられない。この刀は、本当に不思議だ。
「鶴丸」
「この団子、美味いよな!光坊が作ってくれたんだ」
「…うん、美味しいね。ねえ、鶴丸」
「このな、タレがいいんだよな。主もこれが好きなんだとさ」
「鶴丸、ねえ」
「なんだ?浦島虎徹」
「…鶴丸は、海をどう思う?」
白い鶴の刀の神は、寂しそうに、笑う。
「…静かなところが、嫌いじゃない。だが、同時に怖さもある。そんなところじゃないか」
鶴丸の顔は、見えない。
「その下に、竜宮城があっても?」
「あっても、それに呑まれたら?」
「……」
竜宮城から戻ってきた浦島太郎は、
「海は、俺らとは違う場所なんだ」
「未知は、怖いものだろう?」
周りの時の流れに置いていかれ、失意のあまりに開けてはいけないと言われた玉手箱を開けてしまう。
そして、
「だが、未知を気になるのも、人ってものだよな」
老いた老人になってしまった。
これは、間違いをしてはいけない、という戒めの話でもある。
海は広い。海は未知。俺らとは、違う。
だけどそれを知りたくなるのが、人。
「欲ってものは、わからないね」
「ああ。だから面白い」
主さんが海を怖いと言うのなら、俺は絶対に守ってあげたい。それはもちろん、俺の主さんだから、というのはあるはずだけど。もしかしたらそれは、俺が主さんを知りたいと、そして、独り占めしたいという、ただの独占欲だとしたら。俺もきっと、欲深くなってしまった浦島太郎と変わらないんだろうと思う。
でも俺は、主さんに顕現されたただ一振の浦島虎徹は、それでいいはずなんだ。だって俺は、主さんの刀だから。
「欲に負けて海の錆になるのも、悪くない気がするな」
「ほう?」
「まあそれが、主さんの海ならね!」
食べたお団子は、とても甘い。